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"The Garden of Earthly Delights" Hieronymus Bosch


Traditionally it's believed that these three panels are represented in the order from left to right as the past, present and future. But, what do you think if we see them in reverse order? And behold! they would appear to us as an orientation image on how to escape from the hell of war and plague, instead of the warning that we should not fall into the trap of pleasure, It would not be surprising if there was a sect that preached "Your desires won't disappear no matter how you try to suppress them, as long as you do not satisfy them.", and "Stop curbing your desires, release sex and live naturally." A human utopian world view is depicted in the central panel, isn't it? る晴れた日、私はバルセロナのバルでワインを飲んでいた。 そこは高級ブティックが続くガルシア通りにあるバルで、広いウインドウから外を流れる人をぼんやり見ていた。 すると眼を疑うことが起きた。人々に混じって、白髪に顔を覆った髭以外、一糸身にまとわぬ男性が素足で悠然と通り過ぎているではないか。さらに驚くのは、回りを歩いている人たちが、彼に気にも留めないで居ることだ。 日本の銀座で同じことが起これば、直ちに警官が毛布を持って現れ、皆携帯で写真を取り巻くっていることだろう。これは映画のロケではない。しかも白昼堂々とだ。

しかしそこには眼をそむける猥雑感や、スキャンダラスでエログロを全く感じられず、むしろ健全な清々しさを覚えた。

この時一気にボッシュの「快楽の園」が腑に落ちた。 どの美術書にも、中央パネルの裸の人たちが繰り広げる奇態でエロチックな姿態は世界の退廃を表わし、右パネルの戦争と世界の終焉がそれに続くと説明されている。そして左パネルには、罪も穢れも無い誕生したばかりのアダムとイブが描かれている。つまり物語りが左から右へ、楽園(過去)、退廃(現在)、地獄(未来)へと流れているというのである。これは至極納得しやすい説明だ。

しかしボッシュの生きた時代はすでに戦争とペストの嵐が吹き荒れていて、まさに終末観が蔓延していた。とすると、右画面は未来ではなく現在ということではないか? そして、裸=退廃、エロというのもひとつの固定化された近代以降のピューリタン的解釈に過ぎない。 むしろ、天から与えられた体を恥と思う気持ちこそやましい心から出たのではないか?古代ギリシャのオリンピック競技は裸で行われた。それは与えられた体を神々に感謝するためだ。日本でも、褌姿の男や、行水に裸体を晒す婦人などが当たり前のように浮世絵に登場する。

ここからは妄想になる。では、反対に絵を右から左へと流れを変えて見たらどうか? そうすると「快楽の園」が、快楽の罠に落ちてはいけないという警告の絵から、戦争とペストまみれの地獄から脱するにはどうすればよいかとの導きの絵と見えてくる。キリスト教徒は性行為は子供を作るときだけに許され、想像しただけで教会へ行き懺悔し罪を購わないといけなかった時代だ。それだけ最後の審判が現実味を帯びて人々に畏怖の念を抱かせていたことか。悔い改め禁欲せよ!

だがその反動で「欲望は抑えても消えるものでなく、満たしてこそ無くなるのである」、と説く一派が現れても不思議ではないだろう。 「隠す事を止め、性を解放しナチュラルに生きるべし」という、あるべき人間のユートピア的世界観が中央パネルに描き出されてあるのではないか? この絵をボッシュに注文したのは「聖母マリア兄弟会」というカソリックの正統な宗教団体である。彼らがそんな異端の絵を依頼するはずは無い。

だがキリスト教の異端である裸で儀式を行っていたアダム派の教理がまさにそれであり、ボッシュもその宗派に所属していた、という説は否定されたものの、完全にその疑問は拭いきれない。

では物語は左から右に見ていくのが普通なのに、何故右から左なのか? 文章も欧文は左から右である。だが本はどうか?日本の本は右綴じで左から右に開くが、欧文の本は左綴じであり、右から左に開く。そして本の世界は開くにつれて右から左へと現れて行くではないか?つまりこの作品を本としたら右から世界が始まると考えたほうが納得がいく。中央パネルは失われた楽園、すなわち人間が通り、欲望を解放しそれから開放される楽園である。そして最後に現れる左パネルにこそ人間の目指す境地、ゴールが示されてある。

良く見ると、多く描かれてある男女の姿かたちがどれも同一人物であることに気付かされる。 それはまさに左パネルに描かれてある神に祝福されている浄化されたアダムとイブだ。「性」と「聖」はコインの裏表なのだ。 浄化し再生したアダムとイブこそ、彼らが密かに目指す理想像なのだ。

この作品はボッシュの死後、スペイン国王フェリペ2世が購入しスペインに持ち帰った。このカソリック狂信王が異端的世界を描いた絵を公式に認める可能性もない。 だからこそ絵は正統カソリックの教理通り、左から右へ流れていると思わせる必要があったのではないか。

いやフェリペ2世にはその必要はなかった。なぜならスペインでこの絵を見ることが出来たのは国王唯一人であり、彼を異端審問所に送れる人物は存在しなかった。 はたして彼は絵を左から右に見ていたのだろうか?

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