"Self-portrait"
Dürer Prado Museum @ プラド美術館
Dürer was more a printmaker than a painter. His reputation was spread across Europe through prints, and gave a huge influence on the artists of succeeding generations, especially in printmaking. I also started engraving fascinated by his print works.
デューラーの版画の影響で、私は美大に入学早々版画部に入った。 先輩達から銅版画技法を1から教わった。銅板の磨き方、ニスの塗り方、ニードルの研ぎ方。毎日が新しい学びであって、楽しくて仕方なかった。まだ部員の誰も個人で持っていなかった版画を刷るプレス機も、親からの仕送りの約一ヶ月分はたいて買った。狭いアパートも版画工房にして版画に没頭した。
では「本業」の油絵はどうだったか? これがサッパリである。 キャンバスも絵の具も市販されているので、それを使って、モデルを自分の「感性」で「味」のある絵を描くだけ。 それぞれに「味」がある先生方に味付けされる訳だから、牛丼にカレーを混ぜたような絵になる。 絵もデューラーのように描きたいと思ったが、描けば描くほど似つかないものが出来る。おかしい。そもそも画材が違うのだ。しかし美大では絵の具の作り方、キャンバスの調整の方法など教えてくれない。そもそも先生方も知らないのだ。
インターネットの無い時代、私はあるとあらゆる本を渉猟し、絵の具会社主催の講習会に参加したり、テンペラ画の専門家に聞きに行ったりもした。独学で材料から始まる「古典技法」を習得していかざるを得なかったのだ。建築材料を知らないで堅牢な家が建てれるはずがないじゃないか? 顔料、樹脂、膠、麻布の研究と、知りたいことが山とあった。それでももつれた糸が解きほぐされていくスリル感で授業以上にワクワクした。 その成果を試みるためにスペインへ行き、プラド美術館に4年通い詰め、模写を通して古典を学び直した。
デューラーはドイツに生まれ、金細工職人の父親から幼年時代から徹底的に仕込まれた。金細工は絵よりもっと厳しい。一刀一刀気を許せない、失敗したら全てが台無しになる。金属と彫刻刀が体の一部となるまで修練させられる。その修業を経たデューラーからこそ、あの神業的な銅版画が可能となったのだ。 厳しいスパルタ教育。父、星一徹と子の飛馬。
しかし彼だけでなく、ベラスケス、ゴヤ、ダ・ビンチなどその時代は皆この道を通ってきた。14,5歳で親方の工房に住み込みで丁稚奉公に入る。最初は絵は描かせてもらえない。親方の子供のお守り、家の掃除、洗濯、買い物をやらされ、その傍ら、顔料を何時間も砕いて、練らされた。サボると親方の拳骨が飛び、口答えすれば兄弟子から蹴り倒された。そうして体で技術を覚えていく。
デューラーの時代はまだ布のキャンバスが発明されておらず、まず板の削りから始め、その上に膠で溶いたスペイン白やボローニャ石膏を、薄く塗り、乾くと磨く。この作業を何十回も表面が鏡のようになるまで続ける。その上にあらかじめ用意してあるデッサンを転写する。その転写した線が絵が完成するまで見えるようにケガキで掘り込む。 白黒写真を作るようにテンペラで絵を形作っていき、そして顔料を油で溶いた絵の具を息のように薄く何回も重ねていく。それに混ぜるメデュウムは親方の秘伝だ。完成した絵に掛けるニスも大事だ。これで絵の質が決まる。それには太古の樹脂の化石である琥珀が使われたが、これを溶かすには300度近い熱が必要となり、そのやり方は秘伝中の秘伝だった。その硬さはなんと鉱物に匹敵する。
これら全てを習得するにはやはり4、5年はかかる。しかし少なくともこの道で食っていける。ドイツではこの徒弟時代がおわるとさらに4年ほど諸国を遍歴していろいろな親方のところを訪ね、研鑽と技術の情報交換をする。受け入れるほうも喜んで面倒を見てくれる。こうしてヨーロッパ中に新技術が広まっていった。
産業革命は美術業界にも飛び火した。チューブ入り絵の具が1841年に完成。これが出来たお陰で、絵の具を野外に持ち出すことが容易になり印象派を誕生させた原動力になったと言ってよい。みんなの歯が白いのもこのチューブのお陰だ。 長く厳しい徒弟生活を送らなくても、今日からでも楽々絵を描くことが出来るのだ。アートの裾野が格段に広がった。みんながアーティスト。 しかし得るものがあればその同じだけ失うものがあるのは宇宙の法則だ。カレー粉を自作しかことがあれば分かるだろう。無限の応用が利くのだ。ジャワカレーじゃつまらない。
日本が長い鎖国を終えて、近代ヨーロッパに行けるようになり、第一期の渡航組が黒田清輝や浅井忠。その頃は印象派の最盛期で、当然彼らも印象派からスタート。帰国した黒田清輝は日本美術学校(現芸大)を創立。彼は浅井忠を蹴落とし、東京のドンとなる。無念浅井忠は京都に都落ちし画塾を開き、その門人が安井曽太郎だった。 安井も1907年渡仏。その前年はセザンヌの回顧展があり、それに影響をうけたピカソはこの1907年「アヴィニョンの娘達」を完成させている。しかし安井はセザンヌだけを見て、ピカソは無視した。 帰国して東京美術学校教授、さらに文化勲章を授かり名実共に日本の美術界のドンとして君臨する。師匠浅井忠の雪辱を晴らす。 彼は美大生に厳命した、「(ピカソのような)自由研究をしてははいけませぬ。」これで日本のアートの運命が決まった。