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"Saint Andrew and Saint Francis"

El Greco Prado Museum @ プラド美術館

Since prehistoric Altamira cave paintings, in Spain there has been no painter known worldwide until El Greco appeared in the sixteenth century. Spain had money but it was culturally sterile (it looks like the United States until about 1950). But after El Greco, great masters such as Velázquez in the seventeenth century, Goya in the eighteenth century, and Picasso in the twentieth century appeared sequentially. And Picasso took over the mysterious deformation from El Greco, the Golden rule of the painting from Velázquez, and the political factor from Goya.

西暦1世紀の聖アンドレアと13世紀の聖フランチェスカが時空を越えて聖なる対話を交わしている。 プラド美術館で私はこの作品を模写した。 模写したというよりこの作品の前で神秘的オーラに包まれて瞑想していたと言ってよい。 画家の名は「エル・グレコ」。スペイン人でなくギリシャ人だ。「エル・グレコ」とは「ザ・ギリシャ人」という意味のあだ名である(さしずめ私は「ザ・ジャパニーズ」だろう)。

彼もまた時空を超えた。 グレコは当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島に生まれ、画家を志し、アートのベネチィアに渡る。そこでティツィアーノの門を叩きヴェネツィア派の技術を習得。そしてアートのメッカ、ローマに武者修行に行き、システィーナ礼拝堂のミケランジェロの作品を見て、俺ならもっとうまく描いてやらー、とほらを吹き、袋叩きになり逃げ去る。イタリアで一家を立てようとしたが当時イタリアは巨匠で飽和状態。彼の野心を満たすには敷居が高すぎた

そこで目に付いたのが、新興国スペインだ。当時の君主はまたまたカソリック狂信者フェリペ2世。彼はアメリカ新大陸からの莫大な銀と、彼の母君の祖国ポルトガルが王位継承者不在で彼がポルトガル王も兼ね「太陽の沈まない国」の国王としてスペイン黄金時代を築いていた。1970年代、日本に映った輝けるアメリカに似ている。そのフェリペ2世の宮廷画家の職にありつこうとグレコは画策するが失敗。 フェリペ2世はグレコの作風にギリシア正教という異端の匂いを嗅ぎ付けたのだろうかか? 

傷心した彼は以前の首都だったトレドに移住、そこで熱狂的に受け入れられ花開いた。

考えるに先史時代のアルタミラの洞窟画以降、グレコが現れる16世紀まで世界的に知られた画家は出ていない。スペインは金はあったが文化的には不毛だった(これも1950年頃までのアメリカに似ている)。だがグレコの後、17世紀にベラスケス、18世紀はゴヤ、20世紀にピカソと順調に巨匠が続く。

グレコはティツィアーノ達ヴェネツィア派の技法を発展させた。ティツィアーノ以前は、極端に言えば、白黒写真に薄いインクを何回も重ねてカラー写真を作るような技法だった。 つまり形をしっかり決めて置き、その上に色を乗せるシステマチックなやり方だった。

安定しているが自由がない。 それをティツィアーノはぶち壊わし、色を塗りながら形を作っていった。今の油絵の技法がこれである。

さらにグレコが改良したのが、黒の大胆な導入であろうと私は思う。 これはティツィアーノの作品を模写した後にグレコを模写したときに気付いたことだが、ティツィアーノの作品は良く見ると生の黒色がない!?黒く見えてもそれは黒に近い褐色だ。試しに彼の作品の上に生の黒を置いてみるとぽっかり穴が開いたようになるだろう。 こらはグレコがスペインの激しい光と影の洗礼を受けたためかもしれない。ヴェネツィアでは運河の照り返しで影も綺麗な色に見えるが、ここスペインでは影は黒だ。そしてその黒に負けない様に生の白もにべったりと大胆に塗ってある。これで画面が生き生きと息吹いてくる。

この画風がベラスケスに強烈に影響を与えた。それまでの技法を捨て去り、直描きの写真的技法を完成させるきっかけになる。

つまり網膜に映った映像をそのまま絵の具の色に置き換えていく方法だ、キャンバス上に置かれた色の集まりが、再び網膜上で物の形になる。この技法をプリマ画と言い印象派が受け継いでいく。 ベラスケスのアトリエにはグレコの作品が掛けられてあった。

そのベラスケスと自然が俺の師匠だ、といっていたのがゴヤである。 そして、グレコの神秘的デフォルメ、ベラスケスの絵画の黄金率、ゴヤの政治性を雪崩れの様に受け止めたのがピカソだ。 スペイン美術を勉強するならプラド美術館からでるな、ヨーロッパ美術を勉強するならスペインから出るな、と言われる。 だがピカソはスペインを出て、パリに移住する。そしてピカソはキュービズムを始め20世紀のほとんどの流派に影響を与えた。そして第二次世界大戦を逃れたピカソの後継者であるモンドリアン、マックス・エルンスト、デュシャン等、美の巨人達が、新天地アメリカへ渡り、ポロックやロスコのニューヨーク派を生む原動力となった。 結果、美術のメッカはパリからニューヨークへと移った。 グレコが投じた一石はこうして時空を超えて巨大な波紋に発展して行ったのである。

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