"The Courtesan (after Eisen)"
Van Gogh
“I envy the Japanese the extreme clarity that everything in their work has. It's never dull, and never appears to be done too hastily. Their work is as simple as breathing, and they do a figure with a few confident strokes with the same ease as if it was as simple as buttoning your waistcoat.”
ゴッホが浮世絵に影響を受けたのは良く知られている。 印象派の画家達も影響を受けだが、彼らの作品を見る限りどこが似ているのか分からない。ただ彼らは、浮世絵の持つスナップ的な日常生活の描写に影響を受けただけだ。 だがゴッホは違う、その構図もそうだが、浮世絵の影の不在にショックを受け、また自分の探していた道を明るく照らしてくれると直感した。
ゴッホはオランダの片田舎のプロテスタントのカルヴァン派の教会の息子として生まれた。 ゴッホも宗教に憧れ、一時宣教師になろうとするが、かれの狂信的ともいえる奉仕活動にびびった教会は彼を拒否した。 様々な仕事にチャレンジしその全てに挫折、最後に彼は絵描きを志す。 弟を頼ってパリに出たとき出あったのが浮世絵だ。ゴッホの眼には浮世絵に映る日本は、光が溢れるアーティストの別天地に思えた。彼もその楽園をアルルに作ろうとした。社会からも、神からも見放されたゴッホは、南仏アルルで、絵を通して身の回りにあるものと交信を始める。すると、なんでもない全ての彼を取り巻くものが輝いていき、それら全てに神の姿を感じるようになる。それは一神論の神ではない。それは汎神論の言う神だ。宇宙の中にも、外にも神は居ない、宇宙そのものが神だ。
ルネッサンス以降、絵画は一神論に基づき発展してきた。揺ぎ無い大地があり、その周りを、天動説の太陽が回る。これは神が定めた摂理なのだ。 光という神が世界を照らし、影を作る。それは、明暗を強調したカラヴァッジオに代表されるテネブリスムを生み、カソリック美術の頂点といえるバロック美術にたどり着く。神よ栄光あれ! その後いかにカソリックの力が落ちようとこの明暗の考えは、ヨーロッパ人のDNAに染み込んでいる。 フランス印象派の画家達も同様で、影にも色がある、と叫んだが、影そのものを否定はしなかった。フランスもカソリックの国だ。唯一カルヴァン派の国から来たゴッホだけがその吸引力を逃れることが出来た。素直に影を否定できた。
神そのものから見放され、やけになったゴッホはアルルで酒と女におぼれた。それはカルヴァン派が最も禁忌していることだ。構うもんか、俺にはこの宇宙全てが神なんだ。彼がたどり着いた宇宙宗教ともいえる世界観こそが、世界中の人々に深い共感を与えているのだ。彼の作品からは、神に見放されていても大丈夫だという強いエールが送られている。
ゴッホが生まれる300年ほど前、当時スペインの支配を受けていたカルヴァン派のオランダは、スペイン国王フェリペ2世のあまりにも無法なカソリックの強制を拒否し独立戦争を起こす。1588年ついにオランダはスペインから独立。
その12年後1艘のオランダ船が日本に漂着し、乗っていた一人のオランダ人が家康に謁見した。かれは家康に当時日本と交易していたスペインの暴虐とカソリックを通して他の国々を植民地化している現状を報告。これ以降江戸幕府はカソリックの進入を防ぐ意味で鎖国に入る。以後約250年日本は永い眠りに入る。その閉塞状態から独特の江戸文化が開花し、その一つが浮世絵だ。ゴッホが生まれた年、黒船が日本に来航、開国の幕開けとなっていく。
世界に門戸を開いた1854年以降は、大量の浮世絵が日本の陶磁器の包装紙として使われ、海を渡ってヨーロッパに渡っていった。つまりゴッホの祖国オランダが浮世絵を生んだことになるじゃないか?
余談だが、1600年に日本に初めてやって来たオランダ人は、徳川幕府の幕臣となり、いまの東京駅あたりに屋敷を賜った。彼の名はヤン・ヨーステン、日本名を八重洲。そこから八重洲口の名が付いた。