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空の色 - Color of emptiness


空の色

最近、絵と平行して作っている立体作品の影響だろうか、絵の「裏側」が急に気になり始めていた。

試みに絵の裏に木枠をつける代わりに、絵の表に木枠をつけてみた。

すると、絵の表面が裏側になった不思議な錯覚に捕らえられた。表と裏でひとつ、つまりプラスとマイナスでゼロになるというのは「空-クウ」のひとつの解釈であると気付いた。

正の中に常に負の要素が含まれるということを我々日本人は感覚的に理解している。話している相手の言葉にすらその裏側を読もうとする。あるいは器に対する異常なまでの愛着。

またこの「空-クウ」は「空-ソラ」に浮かぶ雲のようなイメージと思っても良いだろうか。それは常に動き続け、徐々に形を変えていく。それは「無」ではなく、完全に存在しているとも、していないともいえない状態だ。

「すべての存在は縁起で結ばれており、独立した存在は無い。」とブッダは言い、自我ですら否定してしまう。「我」が無ければ「他」も無い。

全ての存在がとどまる事なく変化し、またそれを認識する「我」もないのだから個々の存在区別されることが無い。

一方で、西洋ではこの曖昧さを避け表のポジな世界を追求することに終始してきた。

「アートは認識させることである。」とよく定義される。簡単に言えば、存在しているが見えていなかったものを見えるようにすることだ。

個々の物がそれぞれ固定した名前を持っているのでは無く、物を見たときそれから受ける「意識」と、自分がすでに持っている「経験、知識」によってその物を「認識」することができる。18世紀のカントのこの新しい「認識」に関する考え方が、さらに大きくアートの可能性を広げたといえる。

個人個人で見えるように認識していけばよいのだから、人の数だけ加速的に世界は分析細分化されていく。

そしてその新たに認識されたものに新たな名前が付けられ、世界は名前で溢れていく。

それは言い換えれば、すべてのものが白日のもとにむき出しに晒されて、どこにも隠れようがない世界である。

言葉によって定義されないものは存在しない息苦しい世界にとって、「空」の考えは目に見える世界の裏側に広がる豊饒の沃野を垣間見せてくれる一種の清涼剤といえる。

山口敏郎 マドリッド 2016年

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