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未来の記憶


西洋の絵画は科学であり、いかに自然をコントロールするかで発達してきた。 東洋では絵画とは自然になりきることであった。 西洋絵画はランダムでコントロールできない要素、つまり自然を排除して、三次元の世界を正確に二次元という平面に置き換えるかが問題だった。 フレスコ画、テンペラ画を経て油彩、アクリル画を生み出し、写真の誕生からコンピュータ・グラフィックス・アートへ辿り着く。 一方、東洋ではコントロールすることが難しい墨と滲む紙、そして直線が引きづらい筆をあえて選んだ。 たっぷりと墨を含む筆先が手漉きの紙に触れて静かににじみを含んで形が作られていく。 それはまさに自然と遊ぶ体験であり戯れであり、自然を写す行為であるより自然そのものとの共有体験である。 厳しく長い徒弟時代を経なければ職業画家として食っていけなかった西洋と違い、東洋においてアートは皇帝をはじめとする高貴な人たちの高貴な遊びであった。 私は今回の展覧会「未来の記憶」でもそうした意味であえてコントロールできない手法を選んだ。 顔料と和紙を練りこんだドロっとした「絵の具」は筆で描くという行為を拒む。 スプーンでその絵の具を掬い取り床に横たわったキャンバスに静かに落としていく。 時間とともに絵の具の山は崩れていき、温度、湿度の具合により重い顔料は沈み軽い顔料は浮き、一色であった絵の具が様々な色に変化する。 時間が制作に関与し、作者は刻々と変化する絵=自然を観照するのみだ。 こうした自分の身体から出た「内」からの信号を読み取る行為、つまり「内観」こそ東洋が過去から行ってきた「心」の所在の確認法であった。現在のデジタル化された情報はいかにそれが多くても、あくまでもそれは「外」の情報であり「形」に過ぎない。 「形」は千変万化し未来という幻想を生む。 一方「心」は自然という無限の広がりを持って佇み続ける。

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