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グアダラハラ・ノート


「今日は寒すぎてほとんど人が来ないかも知れないな。」とグアダラハラ画廊のオーナーのハビエルが言った。「そんなこともあるまい。」と私は答えたが、内心そうかもしれないと思った。

2012年2月2日、この冬一番の寒さで通りには人の姿が見えない。

しかしオープンしてみると何のことはない。三々五々つぎつぎに人が入って来る。

さらに一様に熱心に作品を見てくれる。若い美大生らしき若者たちも特に念入りに何かを吸収するように見入っている。デッサン愛好家、建築家、精神科医、もちろんアーティストも含め色々な人が多くの質問を投げかけてくる。「どれも繊細で心のこもった作品だ!」と誠心誠意言ってくれたよ。感激で目がうるんだね。

こんなことはマドリッドでの展覧会では有り得んね。みな手にワイン、作品は背にして、作家であれば「近頃はさっぱり売れないね。」的な近況報告を、ある者は政治経済の話をと、まるで展覧会のことはそっちのけだ。

グアダラハラは首都マドリッドに隣接する県で、各駅停車でもたった1時間の至近距離にある。

しかしこの反応の違いはなんだ。

そういえば、私がマドリッドにやって来た30年前、マドリッドが正に今日のグアダラハラ画廊での様相を呈していた。私も熱心に老舗の現代美術の画廊をめまぐるしく回り、新しい動きを吸収して行った。画廊主も時が経つのも忘れ熱心にアートの話をしてくれたものだ。

そうした画廊もどんどん減り、資本をもった企業画廊が入りこんで来るに従い、画廊主と客との関係も薄れちまった。

それはちょうど以前あった街の小さな商店が大型スーパーの誕生と共に消えて行ったのと重なるな。魚屋、八百屋をはじめほとんどの日常品は歩いてすぐのじいさん、ばあさんなんかがやってるショボい店に買いに行ってたっけ。そこでは主人と客との間に色んな話が生き生き飛び交ってうるさいのなんの。もちろん主人はその道のプロで、自分が売っている「もの」に関しては悔しいほど何でも知っているんだ。色々アドバイスをしてくれてこちらは助かり、同時に言葉も覚えて行ったものだ。

大型スーパーができ、そこにはきれいに包装され、マーケティングの結果絶対多数の人が好む「商品」が何でもそろい、人々は無節操にもそちらに流れて行った。そんな所に本当に自分の好みに合って、作った人の気持ちが伝わる「もの」があるはずも無く、またそんなことは売る方も買う方もどうでもよくなってきたんだろう。会話も無いしね。

最近の大手ギャラリーも同様に、マーケティングされた「商品」が並び、画廊主の姿も見えず、アシスタントが奥でパソコンを打ち、携帯でコレクターにコンタクトを取っている。

アート・フェアーはそうした「商品」の見本市で、最新のモデルが提示され、ギャラリストたちはそれらを参考に次の戦略をねり、一般客は、目が回るほど多く並べられた「商品」を探し、自分に好みに合った「商品」を買って来る。その「好み」すら、業界によって操作されているんだよ、新しい携帯の最新モデルのように。

本来、個人の内にある感覚質といったものを掬い上げ、それを丹念にたどっていくことによってのみ多くの人の心を動かす創造的作品が生まれる筈だ。

今回のグアダラハラ画廊での展覧会で得たものは多く、そういう意味で私が一番楽しませてもらったよ。

みんなありがとう。これからも「商品」は作らないで、ショボくてもいいから手作りの「もの」を作って行こうよ。

2012年2月6日、タピエスが死んだ日に  山口敏郎

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